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昔の職人

この記事を書いた人

星野勇 有限会社星亀木工所
1951年生まれ、私立越生高校木材工芸科卒業、有限会社星亀木工所入社。
父の下で、数々の物件の仕事について従事してきました。
第2回暮らしの中の木の椅子展入選
第3回暮らしの中の木の椅子展入選
2008年「あぐらいす」GOOD DESIGN受賞
公益財団法人 埼玉デザイン協議会正会員
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私の父や伯父から聞いた昔の職人の生活です。

椅子職人の昔ばなし

椅子職人は、東京の新橋・芝・麻布周辺で修行した人は、一流と認められ他の地域で育った人よりも上とされていたそうです。それというのも、周りには大使館や官公庁・上場企業の本社ビルなどがひしめいて、最上級の仕事を求められる環境にあったからだと思います。

当時は、椅子職人の手間賃は他の家具職人よりもだいぶよかったようです。それは、脚部が転んでいたり、曲線の処理など手間のかかり方などが違っていたからだと思います。

雇用形態もすごく軽いというか自由だったようで道具箱ひとつで、身軽に渡り歩くのは普通のことだったようで、職人仲間からの話で、いい仕事をやってる所や大きな仕事が入った工場などへ
自転車の後ろに道具箱をのせて、サッと移って行ったそうです。

どんな作業環境だったでしょうか

当時は、規模の大きな工場もあったと思いますが、多くがしもた屋の土間などに汎用機を置いて、職人が2~3人ぐらいの所が多かったようです。中には、角ノミ機一台で、穴掘り専門に請け負っている所もあったそうです。

今は、立って作業することがほとんどですが、昔は、当て板という厚い板の作業台を前に座布団に座り、削り作業から組み立てなど機械作業以外は、ほとんど座って仕事をしていたそうです。
昔は、接着剤に膠(にかわ)を使っていたので、毎朝膠を溶かすために七輪に火を起こすのが見習いの日課だったそうです。夏場は、七輪のそばで削り作業などするとパンツまで汗でびっしょりになるほどだったようです。

 

当時は、晦日、15日で手当てが支払らわれて、雇用形態としては、常用ではなくほとんどの人が受け取りという出来高払いのような雇用のされ方で、今の野球選手のような感じだったようです。

 

当て板