家具業界での出逢いと成長

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西村 義夫 株式会社スタディ百貨店の書棚デスク専門の家具問屋で育ったため、百貨店的風合の書棚デスクを開発し、大型家具専門店を中心にお取り扱いをいただきました。独自の家具を開発し一定のロットでメーカーに製造を委託、運送業者の倉庫に在庫を預け受注分を得意先センターに納品するアウトソーシングシステムでコスト削減をはかっています。ホームページにより天然木突板仕様の特注家具をさいたま市周辺のお客様より受けたまわっております。OEM取引の既成家具工場で天然木突板&無垢材の家具をお安く請け負います。
目次
昭和52年西村商事として創業し、53年8月に株式会社スタディとして誕生しました。
大学に籍がある中、いくつものアルバイトの末、伊勢丹家具売り場のマネキンという仕事についた縁で派遣先の白山商事の社員となりました。興味のわかない法律に辟易、麻雀のために登校するという自活しながらの学生生活は断念しました。伊勢丹、東急百貨店を得意先とする家具問屋の営業マンとしての経験しかなかったが、約5年の勤務を経て、自らが起業しなければ自分の未来がないと気がついたのでした。
商材なし、売り先なし、お金なしで会社ができた!
しかし起業するには商材が要る、売り先が要る、金が要る、のですが、全部なしです。
ただ起業せねば!という気概だけが生まれ存在しました。
4年ほど勤務した白山商事を退社、タンスのメーカーに1年ほど勤務、白山商事の社長から戻ってくれと電話で要請され12月に再び白山商事の社員となりましたが、何と翌年2月に倒産。
唖然とするばかりでしたが、残った在庫の処分を債権者委員会に委託され、家具問屋、家具専門店等に販売しました。
さらに売り先を失ったメーカーの商品を販売することになり、高島屋系列の家具問屋に卸すことになりました。
また当時の最大手家具専門店「ハヤミズ」に納入することになりました。起業を思い立ってから1年で、商材、売り先ができ、金は掛け売りの入金待ちでメーカーに支払うことでよし、という、幸運な展開となりました。
出会い1 チーク材の本棚を
そこへ1年ほど勤めたタンスメーカーの工員から「独立して家具を作るので販売して欲しい。」という連絡があり、さらに幸運の商材を得ることになりました。
当時、百貨店家具売り場での主流はチーク材突板仕様の家具でした。設備の整わない新工場でもできるチーク材突板仕様のオープン本棚を作ることにしました。これが後々得意先を増やす強力な武器となったのです。
埼玉県家具工業組合に入会を拒否される。
ハヤミズ、問屋への売上もありがたいとはいえ、関東には多くの家具店がしのぎを削る大きな市場があることを知り、1,2の家具店へ飛び込みセールスを試みたのですが、門前払い。どうしたら、売り先を増やすことができるか思案投げ首の時、たまたま埼玉県家具工業組合主催の展示会の賑わいを見学して「これだ!」と手がかりをつかんだ思いでした。
北浦和にあった組合の事務局を訪れ、事務局長という男性と、事務員の女性に入会を申し込むと後日「当組合は埼玉県内の家具製造業者の組合であり、卸業者入会は認められません」と断られてしまいました。
そこで「当社の定款に目的として、家具製造卸となっています。改めてお伺いします」と云って翌日、登記簿謄本と、手土産に羊羹を持参し入会の申し込みをしました。
出会い2 タッチを交わしてセーフ
初めて出席した理事会で事務局長は「株式会社スタディさんを新組合員として紹介いたします。一旦、卸業者は入会できませんとお断りしたのですが、定款に目的は製造卸となっていること、それに羊羹をもらってしまったので、入会を認めざるを得ませんでした。わっはっは」
愉快そうにおっしゃいました。きわどく滑り込みセーフ!という感じでした。
出会い3 展示会で大塚家具社長に声をかけられる。
埼家工の展示会に出品できて大成功でした。チークの本棚が多くの注目を集めました。当時家具の傾向の発信元は百貨店で、北欧調チーク材仕様のダイニングテーブル、椅子、食器棚、リビングボードを次々に開発して人気を得ていました。
家具専門店もそうしたチーク材の家具を取り込もうとしていたと思います。たかが本棚ですが、東北の問屋、関西の小売店の方々からも引き合いをいただき、なにより大塚家具社長大塚勝久氏が立ち寄ってくださり、「当社に来て下さい」と丁寧に云われたことが最大の幸運でした。
大塚家具の商談日に伺うと10数人のメーカー営業マンが大塚社長を囲んでいました。その席で「私についてくればすぐ1千万くらいは売れるようになりますよ」と私におっしゃいました。
数日後大塚社長側近の方が「勢いこんで接近しすぎるとドンと落とされるぞ」と忠告してくれましたが、当社オリジナルを製造してくれるメーカーのキャパシティには限度があります。新製品開発もおいそれとできるものではありません。
いずれその内にという想いだけは灯りました。
数年の後、島忠、村内家具店など大型専門店にも取引させていただきましたが、大塚家具向けに中高級のデスク、書棚、リビングボードを開発しお約束以上の数字をいただくことになりました。
近年、世間を賑わした大塚家具でした。勝久氏は「私は失敗したことはありません」とインタビユーでおっしゃっておりましたが、その通りだと想いました。
1万坪の有明ショールームを開店する大勝負、大成功は業界の誰もがなしえないものでした。それまでにも、お化け店舗として村内家具八王子店と並び称されていた大塚家具津田沼店の開店も大成功だったと、その開設に関わった社員が、「俺がやったんだよ」得意げに語ってきました。
3人が3人とも、さらにそれ以前板橋のボーリング場跡に開店した時も大きな話題となったようです。大胆な賭けに危険を感じたメーカーが取引を断ったという話を聞いたことがあります。
販売員の質も大切にしています。老舗で最大手の問屋や、一流のベッドメーカーから多数の社員をスカウトしました。幹部として力を発揮したOBの話ですが、「業績を上げると○百万に月給を上げますか?と云われたのですが、さすがにビビリ勘弁してもらいました」などと聞くと、いかに合理的、大胆、前向きの経営者であるかと驚きます。
仕入れ先にも、社長自ら敬語を使い、販売員、配送員も右に倣えで丁寧な対応をされます。配送センターも一カ所にして仕入先の運送の負担を減らしました。当社が月間1千万ほど売上のあったS社から撤退したのは50もある各支店に納品となると数台のトラックを常備しなければならなかったからです。
「不景気は売上拡大のチャンスです」インタビューに答えておられましたが、店舗、センターなどの家賃が格安になるとか、別の根拠があるのかもしれませんけれども。
「安売りをしようという誘惑に駆られることもありましたが、地域で一番安い価格に合わせることにしています」積年の苦悩と忍耐が滲み出ている言葉と思いました。
商品部の幹部に「商品開発の試作は何度もメーカーにさせないで、1回で済ませなさい」と強く指導されている様子も垣間見ました。試作の労力だけでなく、試作品の処分も容易ではないのです。
テレビの取材番組で和室に着物姿で正座をされ筆を執るシーンが写されました。座右の銘として掲げられた紙に何のてらいもなく「努力」と書かれておりました。脱帽!でした。
思い出せば色々ありますが、家具業界のカリスマでしょう。私にとっては唯一の!
出会い4 商品開発 家具の顔をデザインする人
有力な家具専門店に取引をさせていただけることで展望が開けてきました。ただ、単価が低いオープン書棚中心では物足りない。もう少し付加価値のある製品を開発したいのですが、現行取引の工場では設備も技術も限界がありました。
それでも当時ブームを巻き起こした「ブックマン社」のスライド書棚にあやかって、文庫本専用のチーク突板のスライド書棚を開発したりしてみましたが価格面技術面でやや問題があり中止としました。
そんな時1人のデザイナーを紹介されました。もう1段階段を昇るためには機能、材質だけではなく、家具の顔が要ると思いました。彼とともに札幌、旭川の家具メーカーを訪ねたのです。札幌のメーカーは腕に覚えのある職人社長でしたが、乱立する家具工場の戦国時代であり、経営には苦労されていたようです。
旭川のメーカーは無垢材の扉を用いた高級タンスを開発、一世を風靡した後下火になりつつある局面だったようです。
デザイナーの信用もあり、OEMの承諾を得てかえりました。
私はミサワホームで新築した住まいに入居したばかりでした。それまで住んでいた和風住宅とは違い、ドアの色は紫がかったダーク色、どの部屋も鴨居のない白色の壁面です。
従来の家具の高さは180センチ以内でしたが、天井までの高さの家具を作ったらどうか。一本立ちはあり得ないが、二つ重ねなら、10センチ余裕を持たせて総高さ2300ミリにしてみよう。という発想が生まれました。
後はデザイナー氏にお願いしようと考えていて、たまたまホームリビングという家具の業界紙を手にとって驚きました。タブロイド判の裏表紙に九州のメーカーの高校写真が載っておりました。
その扉の表情が、デザイナー氏と見学した旭川の有名メーカーの特長によく似ていたからです。彼のデザイン!と直感した私は「あれはあなたのデザインでしょう。うちの新作にもあの金色金物を使ったイメージで画いて欲しい」彼は「金具の形状はオリジナルな金型を起こしてデザインしましょう」となりました。
金色の飾り金具を用いた高級家具は別のメーカーでも制作していました。コピーとはいえないとしても、イメージは大いに参考にさせていただいたのですから、後日有名メーカーから憎まれたかもしれません。
プレステージと命名したリビングボードは大ヒットし、2年もすると扉のデザインどころか、幅奥行き高さまでそっくりさんが少なくとも2メーカーから発売されたほどです。
大ヒットのもう一つの理由は価格です。制作を依頼したのは旭川のメーカーではなく、栃木の木工所でした。埼家工の江戸川家具工業社長の従兄弟の職人さんを紹介されました。
「何某という問屋に引っかかって仕事がないんだよ」聞けば2人しかいない工場だが、塗装もできるとのこと。早速希望価格を伝えて図面を渡しました。マンションには家具を置くスペースは少ない中、天井までの造り付け感覚で高級イメージの割に低価格ということが、人気を得た理由でした。
2人だけの工場のはずが、発注すればするほどドンドン納入してくれるのです。腕もよくはたらきものの職人でした。
数年後には、2トンロングのピカピカの箱車でやって参りました。
どこかの問屋にだまされた後遺症もなくなったようでした。勿論当社も売上伸張し得意の絶頂期でもあり取引先の職人社長の晴れ晴れとした顔を見ることはうれしいことでした。